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なぜ「ランナーズハイ」が起こるのか?


多くの人が、ランナーズハイを陶酔状態に例えている。
たとえばイギリスの文化史家であるヴァイバー・クリガン=リードは著書『フットノート (Footnotes)』のなかで、ランナーズハイの感覚を「密造ウイスキーの様に強烈だ。誰かれかまわず声をかけて、きみは何て美しいんだ、世界は何てすばらしいんだろう、生きてるって最高だね、なんて言いたくなる」と書いている。
また、ランナーズハイはランニングだけでなく、ハイキング、水泳、サイクリング、ダンス、ヨガなどの持続的な運動でも得られることがわかっている。
最近の研究では、ランナーズハイで多幸感を得られるのは、人類の狩猟採集生活と関係していることが指摘されている。
400万年前の猿人たちは、直立歩行だが樹上で過ごす時間が多く、枝をつかみやすいように足指が長くて曲がった足をしており、走るのには適していなかった。
だが200万年前、大規模な気候変動で地球の温度が低下。東アフリカでは森林地帯が減少し、まばらな森や広い草原が出現した。原始人は獲物を狩ったり木の実を収集したりするために、広範囲を移動する必要に迫られた。
現代人のように扁平で地面を蹴りやすい、走るのに適した足が登場したのは、化石記録によると100万年から200万年頃のことだ。自然選択によって、長時間の狩りを続けられる、走るのに適した身体的特徴が優性になったためだと考えられる。

とはいえ、身体が走るのに適していても、夜明けから日没まで狩りをしたり、ひたすら木の実を摘んだりするのはつらいものだ。
アリゾナ大学の人類学者であるデイヴィッド・ライクレンは、人間は空腹を満たす目的だけでそのような苦行に耐えられるかどうか疑問を持った。そしてランナーズハイについて、ある仮説に至った。
人類は進化の過程で快感をもたらす脳内化学物質の働きを利用し、持久力を発揮すると報酬が得られる仕組みを持ったのではないかと。ライクレンは、それこそがランナーズハイなのではないかと考えた。

20分の「ややきつい運動」でハイになる


ライクレンは、ランナーズハイと内因性カンナビノイドという脳内化学物質の関連性に着目した。
内因性カンナビノイドは、大麻やマリファナのように苦痛を緩和し、気分を向上させたり心配事やストレスを軽減したりする効用がある。
ライクレンは定期的に走っている人たちを集め、トレッドミルを用いて、さまざまな強度のトレーニング実験を行った。
実験では、トレーニング前後に被験者の採血をして、内因性カンナビノイドの血中濃度を調査した。
その結果、30分間のウォーキングや全速力で走った場合だと効果はなかったが、ジョギングになると内因性カンナビノイドの血中濃度が3倍も増え、被験者はハイな気分になったと報告した。
またランニングだけでなく、サイクリング、ハイキングなど、心拍数が上昇する持久性運動であれば、内因性カンナビノイド値が上昇し、ランナーズハイに相当する高揚感が得られることもわかった。
ランナーズハイは、ややきつめの中強度の運動を20分継続することで起きるのだ。

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スタンフォード式人生を変える運動の科学

運動そのものが「麻薬」?


1970年、ニューヨーク市・ブルックリンの精神科医フレデリック・ベークランドによって、定期的に運動している人が運動をやめると眠れなくなり、深刻な精神的苦痛を感じることが報告された。
その後も多くの研究で、毎日運動をしている人は1日でも運動を休むと不安や苛立ちを感じ、3日間運動しなければうつ病の症状すら表れることがわかった。
運動愛好者は、依存症の人と共通点がある。運動が大好きな人が自ら、「麻薬中毒者が麻薬を欲しがるようなもの」と言うことすらある。
実際、“運動中毒”を自認している人がトレーニングをしている人物の画像を見ると、欲求を司る脳内神経回路が活性化するのだ。

ラットを用いた研究だと、ランニングホイールで1日10キロを1カ月間走らせると、ラットのドーパミン作用性の神経細胞に、コカインやモルヒネを毎日投与したのと同様の変化が起きた。
そのラットは、ランニングホイールから24時間引き離しても、そのあとまた接近させると、夢中でランニングホイールを走り続けた。
運動は常習性薬物と同じように、ドーパミンやノルアドレナリン、内因性カンナビノイド、エンドルフィンなどといった脳内化学物質の分泌を引き起こす。
ただし運動とコカインでは違いもある。それはタイミングだ。運動に夢中になるには、より多くの時間がかかる。
ランニングホイールで2週間走らせるだけだと、ラットは走るのに夢中にならない。6週間を過ぎた頃から、やっと走る距離が日ごとに増えて、脳の神経信号もラットが走るのに夢中になっていることを示すようになる。
人間の場合も同様だ。
ジムの新規会員を対象とした実験によると、新しい運動習慣を定着させるのには、週4回のトレーニングを6週間継続する必要があったという。運動は、続けていくうちにだんだん楽しくなるものなのだ。

集団的な喜びと「シンクロニー」


1912年、フランスの社会学者エミール・デュルケームは、儀式や遊びや作業において人々が一体化して動くときに感じる自己超越的な高揚感を、「集合的沸騰」と表現した。
運動仲間やチームメイトを、まるで家族のように感じることがある。そうした集合的沸騰による喜びを感じる能力があるのは、人間は生きていくために力を合わせる必要があるからだ。
イギリスの人類学者であるアルフレッド・レジナルド・ラドクリフ=ブラウンは、インド東部のベンガル湾のアンダマン諸島で、先住民族の儀式を観察した。
そして儀式がもたらす驚くべき心理的効果と儀式の同調性(シンクロニー)について、こう言及している。
「その男性の踊り手は、舞踊に没頭するうちに仲間と一体になって我を忘れる。やがて強烈な高揚感に包まれた彼は、尋常ならぬエネルギーと力に突き動かされ、自信に満ちて驚異的な舞踊をやりとげる。このような陶酔ともいうべき境地を味わいながら自尊心が頭をもたげることで、踊り手は力がみなぎって、自己の価値が高まったように感じる。それと同時に、踊り手はすべての仲間たちと恍惚とした完璧な調和でつながっており、仲間に対する親しみが増すのを感じる」
集団的な喜びがもたらす効果には、高揚感や恍惚とするような調和の他に、親しみや協力という副次効果もある。
つまり皆で動きを合わせると、信頼感が高まり、仲間同士の分かち合いや助け合いが促進されるのだ。

集団的な喜びの重要な役割は、お互いの協力をうながし、社会的なつながりを強化することにある――人類学者たちはそう考えている。
私たちは一緒に身体を動かすと、原始的な本能により強い結びつきを感じ、仲間のために進んで協力しようとするのだ。
別の研究でも、参加者らが足並みを揃えて歩いたり、音楽に合わせて足を踏み鳴らしたりするだけで、そのあとに実施した経済ゲームで積極的に協力し合い、みんなの利益のために自分の利益を犠牲にし、見知らぬ相手を助けようとすることが確認されている。
このような人間の行動と、チンパンジーやゴリラ等の霊長類が互いの体からダニやノミを取り払う「社会的グルーミング(毛繕い)」との類似点を指摘する人類学者もいる。
動物が毛繕いをするのは、衛生面や外見を整えるのが目的なのではなく、絆を深めるためだ。お互いに触れ合うと、高揚感をもたらすエンドルフィンが分泌され、つながりが強まり仲間意識が形成される。
毛繕いをする仲間同士は食べ物を分け合うし、争いが起きたときに互いの味方をすることがわかっている。
霊長類だけでなく人間の場合も、エンドルフィンが見知らぬ他人同士のつながりを強化する。私たちは笑ったり、歌ったり、踊ったり、物語を語ったりするが、こうした社会的グルーミングをするからこそ、短期間で大きな社会的ネットワークを形成できるのだ。

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「動きの質」で自己認識が変わる


自分の体の動きを認識する能力を「固有受容」と呼ぶ。
固有受容は、自己概念の形成において大きな役割を持っている。これが「私」だという自己認識の感覚を生み出す脳の領域は、体の筋肉や関節、心臓や肺、消化器などから、信号を受信する。これらの内因感覚が、「自分らしさ」を形成するのだ。
たとえば優雅な動きをするとき、人は脳が手足の伸びやかさや、足取りのなめらかさを感知し、「私は優雅だ」と認識する。
力を込めた動作をするときは、脳が筋肉の抵抗と腱の張りを感知して、「私は強い」と認識する。こうした感覚こそが、自分はどんな人間でどんな能力のある人間なのかという自己認識のもととなる。
「どうせ私なんて年だから」「不器用だから」「太っているから」「調子が悪いから」「体力がないから」といった思い込みも、自分の体を動かすと払拭されるケースが多い。
心理的外傷を負った人々のトレーニングを担当するローラ・コウダリーは、こう述べる。
「小柄なせいだけじゃなく、生活環境のせいで、自分は小さな存在だと思い込んでいた女性たちを、何人も見てきました。そういう人たちが、自分ではとても無理だと思っていた重量のウェイトをもち上げると、さっそうとした足取りで帰っていきます。予想以上に重いものをもち上げたことで、自分が思っている以上の実力を発揮できることを、みずから示したのです」

グリーン・エクササイズの効果


心理学では、自然のなかで行う運動を「グリーン・エクササイズ」と呼ぶ。屋外で体を動かして5分もすると、気分は上向きになり、楽観的になることがわかっている。
韓国のソウルでうつ病を患った中年の患者たちが、週1回の認知行動療法のセラピーを受ける前に、木々や高原植物の豊かな洪陵(ホンヌン)樹木園で散歩をした。すると1カ月後、患者たちの61%は寛解状態となっていた。
この数字は、散歩をせずに病院内でのセラピーを受けた患者たちに比べて3倍も高い。
しかもグリーン・エクササイズの場合、ランナーズハイとは異なり、向精神作用がすぐに表れる。
なぜならグリーン・エクササイズの効果は、内因性カンナビノイドやエンドルフィンなどの高揚感をもたらす脳内化学物質に起因するものではなく、脳のDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)の活動を非活性化させるために起こるからだ。
人間の脳は安静時でも、記憶や言語、心的イメージや推論などが活性化している状態にある。この状態をデフォルト状態と呼ぶ。
ほとんどの人のデフォルト状態には、ネガティブ・バイアスがかかっている。過去のつらい経験を何度も思い出したり、自分自身や他人を批判したり、心配すべき理由をしつこく考えてしまったりするのもそのためだ。
このデフォルト状態を沈静化するには瞑想が効果的だということが、脳画像検査によって明らかにされている。それと同様に、グリーン・エクササイズにもデフォルト状態を沈静化する効果がある。

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スタンフォード式人生を変える運動の科学

『スタンフォードの自分を変える教室』著者、最新作!
為末大氏推薦!

「体を動かすこと」は、私たちの不安や孤独感を消し去り、喜びと希望を与えてくれる。
心理学から神経科学、人類学まで最新知見を結集し、その奇跡の力を解き明かす。
【日本語版読者へのメッセージ】
いまは大変な時期ですが、ダンスやヨガやキックボクシングなど、
毎日の運動のおかげで、私は希望をもって過ごしています。
体を動かしていると、私はいきいきとした気分になって、
自分よりも大きな存在とのつながりを感じます。
みなさんもぜひ、体を動かす喜びを見つけてください。
みんなで一緒に乗り越えよう――体を動かせば、そんな思いが湧いてきます。(ケリー・マクゴニガル)


【運動について明らかになった科学的事実の一例】
◎毎日の平均歩数が「5649歩」を切ると、不安や落ち込みが増大する
◎運動嫌いでも「週3回×6週間」の継続で「運動依存症」になる
◎脳内化学物質の活性化で「うつ病」「不安症」「孤独」を防ぐ
◎「希望の分子」ホルモンが、脳のストレス耐性を高める
◎幸福ホルモン「エンドルフィン」の効果で、人との絆が深まる

【目次】
第1章 持久力が高揚感をもたらす
第2章 夢中になる
第3章 集団的な喜び
第4章 音楽に身をまかせる
第5章 困難を乗り越える
第6章 いまを大切に生きる
第7章 ともに耐え抜く

【担当編集者より】
運動の効用は、健康増進やダイエットにとどまりません。
やりとげる力、他者とのつながり、困難に立ち向かう勇気。
人生を充実させる全てが、体を動かすことで手に入ります。
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メンタルヘルス維持のためにも、できる範囲で「体を動かすこと」が重要なのだと痛感しています。